便利さの果てに、人間は「感じる力」をどこかへ置き忘れてきた。
すべてが“消費可能”になった社会では、
驚きも感動も、そして孤独さえも、商品としてパッケージ化されている。
なんでも消費物になる社会
私たちはいま、どんな体験も、どんな感情も、
「コンテンツ」として消費する時代を生きている。
- 旅は“映える写真”のための素材に
- 恋愛はアプリのアルゴリズムでマッチングされ
- 芸術や思想でさえ、“バズ”という指標で評価される
この構造の中で、人間の感情は即時処理されるデータへと変わっていった。
感情はもはや「感じるもの」ではなく、
“消費して次へ行くもの”になっている。
刺激のインフレと「感動の通貨安」
かつて“初めて見る景色”は人生を変えるほどの体験だった。
だが今は、あらゆる絶景もSNS上で見飽きてしまう。
AIが生成した美しい映像が溢れ、
“リアル”が“再現物”に飲み込まれていく。
刺激が過剰になればなるほど、
人間の感情は鈍くなる。
いわば、感動の通貨安が起きているのだ。
消費社会とは、刺激が増えるほどに、感動が安くなる社会。
感情を「速く」処理する社会
現代人は、感情の速度に追われている。
映画を観ながら別の動画を流し、
悲しみを感じる前に次の情報がやってくる。
感情に「滞在する時間」がない。
そのため、何かを深く味わうという行為が成立しなくなっている。
“感じる”とは、“立ち止まる”ことである。
だが、現代社会では立ち止まること自体が非効率だ。
消費できないものこそ、真の豊かさ
だからこそ今、最も価値があるのは
「消費できないもの」だ。
- 時間
- 沈黙
- 信頼
- 手触りのある体験
- 感情の余韻
これらは量産も効率化もできない。
だからこそ、消費社会では“無価値”とされてきた。
だが、人間の再生はその無価値の中にしか宿らない。
消費できないものが、人を人に戻す。
文明の老化――欲望の終点としての成熟
刺激を追い続けてきた文明は、
いま“飽き”という病にかかっている。
どんな新しい技術も、どんな美しい広告も、
もはや人々を驚かせられない。
文明の老化とは、「もう驚けない」という集団的感覚のことだ。
欲望の限界を悟った社会は、成熟に見える。
だがそれは、感情がすり減った退化の別名でもある。
非消費という抵抗
近年、“非消費”が静かに流行している。
SNSをやめ、日記を書く。
新しい服を買わず、古着を手入れする。
旅に出ず、庭を整える。
それは逆行ではない。
「感じることを取り戻す運動」である。
もはや新しいものは必要ない。
必要なのは、もう一度“感じなおす力”。
結論:感じる力を、再び取り戻すために
すべてが商品になった社会では、
人間の内面までもが“市場化”されていく。
だが本当に豊かなのは、
他者にもアルゴリズムにも奪えない時間だ。
感じることは、消費できない。
だからこそ、それは“最後に残された自由”なのだ。
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